先日、金沢21世紀美術館にて展覧会「DXP (デジタル・トランスフォーメーション・プラネット) ―次のインターフェースへ」の特別企画として渋谷慶一郎さんと共に新作パフォーマンスやポストトークを開催された池上高志氏。
普段は、東京大学大学院情報学科の教授であり、近年はアート関連の活動を行っている池上高志氏にアートの選び方についてお話を伺った。
徳光:今回はタグボートのアーティストの中から池上さんの視点で、なぜそのアーティストを選ばれたのかを伺いたいです。なぜ、こういうことをしているのかというと、日本のアートってマーケットがアメリカの1/50くらいで非常に小さいんですよね。それは、日本国内のアートマーケットは、資産として根付いてないというところが原因でもあります。結局アメリカのように付加価値を付けるというシステム化がまだ日本には根付いていないんです。我々としては、そのさまざまな業界の尖った方にどういった視点で、実はアートをこう選ぶと面白いという新たな視点をリレー形式でお聞きして伝えています。
池上:好きと買うというので、ものすごい違うと思っていて。
徳光:そうですね、だいぶ違いますよね。どちらが話しやすいですか?
池上:買ったこともありますけど。自分が好きな作品で、例えばデイビット・ホックニーなんて買えないじゃないですか。好きな作家はみんな買えないんですよね。だからどう考えたら良いか難しいなと。
徳光:確かにおっしゃる通り、奈良美智の作品だと何億もしちゃうんですよね。億までいってしまうとそもそも買えないですよね。意外と人が好きな作家って人気があるからみんなが欲しがるので、好きな作家であればあるほど買えないというパラドックスがありますね。
池上:例えば、一番誰が好きかと聞かれるとフランシス・ベーコンなんですけど、今回それが一番困ったことですね。なので、ベーコンが好きで同じ目で現代アーティストを見て欲しいと言われたらものすごく苦しいですよね。
徳光:タグボートで取り扱っている10万円くらいの作品ではどうでしょう。欲しければ欲しいほど買えないということがあるなかで、例えば、買うとすれば、もしくは好きだという視点でも良いんですが、そこでの一般の方とは違う視点で語って頂きたいと思います。
池上高志
東京大学大学院総合文化研究科教授。主に人工生命や物理を専門に研究している。
メディアアーティストとしても知られ、Ars Electronicaやメディア芸術祭で受賞歴がある。
「Burn!」キャンバスに油彩 23x 16 x2cm, 2023
池上:なるほど。池伊田リュウさんが一番違う理由で選びました。僕も池井田さんと一緒で上諏訪出身なんですよ。諏訪湖のある上諏訪で生まれて、池伊田さんも諏訪で過ごした風景をもとに描いているなど、共通する部分もあります。記憶の中の風景というのは情報の流れなので、そういう風にして風景が情報の流れになっていくのが面白いなって。
徳光:彼女の作品は、アウトサイダーアート的なものがあります。何か特別な美術の教育を受けた訳ではなくて、家族と離れておばあちゃんと暮らしてた頃から絵を描き始めています。その時に見た夢とか、妄想とかそういうものの中で描いているので色の付け方が特徴的です。
池上:こういうものって例えば、ピーター・ドイグに似てると思ったりしていました。僕自身ドイグが好きなこともあります。まず目の前の風景を一旦記憶に置いて、自分の心象風景と混ざった作品というのが結構好きなので良いなと思いました。
徳光:見たものをそのまま描くのではなくて、一旦自分の中で消化して、その中でイメージしたものを描く作品が好きだということですね。
「Switchback And Infinity 8」キャンバスに水彩、マジックペン、油彩 27.7x 22 x2cm, 2023
「Just Switchback」キャンバスに水彩、油彩 27.7x 22 x2cm, 2023
「TEMENOS (F20-1)」パネルにキャンバス。油絵の具。60.7x 73 x2.7cm, 2023
池上:一番好きなのは三塚さんの作品です。ホックニーっぽいなって思いました。その時代のその街の雰囲気っていうのがあるじゃないですか。ホックニーの雰囲気って本当に、その当時のロサンゼルスの雰囲気を感じるというか。
徳光:これは福島の原発の事故の場面のピクセルを大きくして見せている作品です。これは警官の後ろ姿ですね。
池上:やはり作品に自分のフィルターがすごくかかっている。この場合には、福島にある雰囲気が不安定というか、ホックニーのロサンゼルスとは違うけれど、そういった見えない雰囲気を表すのが面白いし、色使いが良いですよね。
徳光:彼は政治的なモチーフもよく使っています。作家の周りに政治関係の人が多く、どうしても政治的なことを聞いたりとか見たりとか感じたりすることが多いので、作品に政治的なものが散りばめられています。
池上:ここから政治的とはあまり思わなかったんですけど、でも実験性じゃないけど、普通の風景じゃないところも面白いです。写真家の新津保建秀さんの写真集に※バックスラッシュ風景の写真集があるんですが、単語の前にバックスラッシュを付けるとそれ自身の意味ではなくなるっていう意味がある。バックスラッシュはコンピューターがすべての単語に機能が割り振られているので、その文字そのものを使いたいという時に使います。バックスラッシュ風景というのは、意味はない風景そのものだっていうか。政治的であるかどうかは、ぼくはあまり興味がなくて。
徳光:わかりやすく見せるよりはぼやかしているほうが良いということですか。
池上:そういうことではないです。何か抽象画を描いた時にこれは本当は海なんですよっていう議論は、意味がないと思うのです。それがいいからいいだけで、それが何を表すかって意味ないですよ。
徳光:抽象画の人は結構好き嫌いで選ぶ方が多いですね。
池上:意味の病っていうのがあって、意味づけと解釈の渦に巻き込まれたらもう面白くない。意味の病から逃れるためにアートをやってるんだって僕は思っています。なので、特にバックスラッシュ風景が僕の根本にあるので、三塚さんはなにか情報の流れとしての記憶という意味で選びました。また、全然関係ないですが、僕の研究が集団になると新しい性質を帯びるという集団値というものを色々と研究しているので、そういう観点から見ても面白いなって思いました。
※バックスラッシュとはPCのキーボードのスラッシュ〈\〉の逆という意味である。
「THE BOOK OF TEA (F20-2)」パネルにキャンバス、アクリル絵の具 73x 60.7 x2.8cm, 2022
「Immortal reflection IV」パネルにキャンバス、アクリル絵の具 73x 60.7 x2.8cm, 2022
「typography house A」タント紙/トレーシングペーパー/ワニス 12.5x 12.5 x9.5cm, 2019
池上:研究はコンピュータの中の世界でやってきました。それをコンピューターの外の世界に出して色々やろうっていうのが僕のアートの始まりだったので、そういう意味だと三塚さんとKaimihasamiさんは両方ともコンピューターの中の世界ではなくて、外に出したからできるシステムだと思うので、面白いと思いました。
徳光:元々彼は理科大の出身で、ジオラマを作るのが好きだったんですね。そういう物事を立体的に頭のなかで空想する行為が彼は好きなので、作品をつくる時もどうしてもそういう風になってしまうようです。
アルファベットすべてをジオラマでひとつの建物としてつくるので、その建物のどこにトイレがあるとか居間があるとかを意識して制作しています。
「typography house A」タント紙/トレーシングペーパー/ワニス 12.5x 12.5 x9.5cm, 2019
「Farm #06」ペーパークラフト / ペインティング 34x 23 x5cm, 2022
「Repetition_書物の聖母 01」板、油彩、テンペラ 65.2x 53 x1.5cm, 2022
徳光:名画の一部を切り取ってそれを連続的に見せていくという作家さんです。
池上:僕らの研究もそうだけど、繰り返しパターンが常に色んな研究にあるんですよ。その繰り返しが壊れる時に現象を研究することっていうのが物理は割と多いです。対称性の破れっていうんですけど、そこに注意が向けられるものがあるから、どんな人でも音でもパターンでも繰り返していることに目が行くと思うんです。でも完全に同じパターンではないんですよね。
徳光:手で描いているので、完ぺきではないですね。
池上:そうですよね。人間は少し壊れているということに非常にセンシティブなんですよ。そういう繰り返しと壊れというは研究の中心テーマでもあります。
徳光:壊れというのは?
池上:壊れというのは、繰り返しているんだけれども、必ず同じものが切り返されているわけではないという。
徳光:ということは、やはり池上さんは研究していらっしゃっている物理の考え方の中で作品を選ばれているのですかね。
池上:これに関してはそうですね。
「BABY BUOY」板、綿布、油彩 162x 194 x4.5cm, 2022
「M.N.L.S_01」板、油彩 22x 16 x4.5cm, 2023
徳光:建築にも興味があるんですか?
池上:建築の学界にも呼ばれたことがありますが、建築も別に家を立てていることが建築だと思っていないです。建築学会も建築をやっている人たちって家を建築だと思ってないんですよ。だからどんなアートも建築もファッションもエッジの部分では、典型的なもの、平均値的なものを否定している。でも売れるものはみんな平均値で、、、でも典型的な見方というのは、あまりしないのでわかんないんですよね。
徳光:確かにアートって以外と平均値的なもので売れたりしますよね。売れている作品のモチーフは以外と平均的でどこにでもあるものだったりします。
池上:それは良いと思いますよ。作っている音楽だって建築だってむちゃくちゃ平凡なものを使うけれども何か先端にみえる。別に変わったものを持ってくるのがファッションではないですよね。
徳光:平凡なものであってもそれの見せ方やプレゼンのやり方によってそれが面白いものに変わるっていう。
池上:面白いっていうのが、それは主観的なものだと思いますけど。それに関しては、作者が自信があるかっていうことだと思います。
徳光:先程エッジが効いているっておっしゃっていたんですけども、エッジが効いているものを好きになってしまうのですか?
池上:この場合、エッジというのは、先端とか先鋭とかそういう意味です。あるいは周辺ということ。僕の言っているのって、世界はこういう風にして回っていると見ることもできるという観察に過ぎなくて、特にすごい理論的なことを言っているんじゃない。ファッションにしてもどういう靴をつくるにしても科学にしても音楽にしたって、みんな最先端はそうじゃないですか。でも、買うってなるとど真ん中の超平凡なものが選ばれるじゃないですか。そういう価値基準を僕はあまり考えたことがなかったです。科学を推進する時の立場とか視点とか、最先端の音楽をつくっている人の立場とか眼差しの方向は同じだと思うんです。でも享受する側は違う。期待するところは、そういう変わったものじゃない。
徳光:誰もが見るようなド・ストレートではなくて、違う切り口で見たりとか。
池上:進めるためには、境界は動かさないっとだめだ、ということですよ。真ん中に留まって、同じものをつくろうとはしてない。どうやって境界を押し進めて、境界をぶち壊すかってことですよね。
徳光:そういう風に考えているアーティストもいると思います。
池上:いや、それしか僕はアートじゃないと思いますよ。それ以外なんて意味ないじゃないですか。それはいわゆる日曜画家っていうやつですよね。そういう趣味に生きる生き方もあるかもしれないけど、やっぱり、自分でやる場合はそうじゃないですね。それは僕がやっている研究に関してもですけど。
徳光:それは、物理の研究をやる場合もやはり業界というか知識の境界を崩していくということでしょうか。
池上:教科書にのっていない新しいことを考えるということですよね。
徳光:アートも当然、アートで食べていこうと思うのであれば、新しい”境界の周辺をねらう”ということですね。
池上:食べていけるかは難しいと思います。新しいことをやればやるほど、みんなの欲しいもととは遊離するので。でも僕はそっちにしか興味がないから。
徳光:実際にど真ん中の方が食べていけるんですよね。長い目で見たら、あとで世の中が追いつくというか。
池上:その人の性格だと思いますけどね。どうしても壁を壊したい人か、それとも真ん中にいたい人か。常に周辺であることが重要なんですよね。先程の境界というのはそういう意味で、常に周辺にいないとダメなんだと思います。真ん中にいたらダメになっちゃう。それがクリエイティブっていうことだと思います。
徳光:アーティストの中でも二分しますよね。ど真ん中で自分のやりたいことをやる人もいれば、新しいことを常に追及している人も。後者の場合は売れなかったり食べていけなかったりするので、どこかで行き詰っちゃったりするんですよね。
池上:普通はそうだと思います。それは科学者もアーティストも千人に一人か二人でしょ。でもそれが「創造」ということですよね。
徳光:100人にひとりいるかいないかだと思います。端っこをあえて目指すというのは珍しいです。日本人は真ん中にいることで、安住することで安心感を求める人が多いですし、アーティストも例外ではないです。社会人に比べると周辺でやっていく人は多いと思うんですが、それでもやはり、結局食べて行こうとすると自分のやりたいこととは違う方になるんですよね。
池上:今回のテーマのそここそが問題で、食える為に売れなくちゃいけなくて。どういうのを買いますかっていう質問はまさに、どういうものが好きですかと、どういうものが欲しいですかという真逆の質問になりますよね。アーティストも自分の好きな絵じゃないと描けないだろうって普通は思うんだけど、売れているアーティストはどうなのか。例えばゲルハルト・リヒターは作品を自分の手で描いてなくても10億円の値が付きますし、そういうのはどういう風に思われていますか。
徳光:新しいことをやっているからこそ、今、そういう値段がついているのだと思います。逆に以前にそういうことをしなかったら今はそういう値段がつかない。新しいチャレンジがあるからこそ歴史に名が残るのであって、キュビズムを発見したピカソも発明ですよね。
池上:ヨーゼフ・ボイス以降。社会における行動や決意をアートとして世界が容認したということですよね。ボイスは周辺だった。そして周辺から中心へ。
徳光:アートは周辺に行けということですね。
池上:とっかかりのヒントとしてはね。なんでも命がけのものが、ある意味本物のアートだと思います。